2012年6月9日土曜日

扇子のみの座式「黒田節舞」

外国人に簡易な黒田節舞を指導するには上半身のみで扇子舞を考案した。

「酒はのめのめ」
閉じ扇子のまま両手2指で挟み拝し持ち、飲むポーズ。

「飲むならば」
扇子を両手で開き、飲みあげて、顔を覆うように胸前に持つ。

「日の本一のこの槍を」
両手で胸前円を描き、両脇に一文字に開く。
右脇で閉じ扇子、左手に持ち替え右手で添えて抱えポーズ。

「飲み取る程に飲むならば」
扇子を一回転して右手で半開き、口元に置き酔った身振りで閉じる。

「これぞ真の黒田武士」
右手扇子で前を指し、山形に払い右八相の構え。
左手鞘にして指回し納刀の感じで残心ポーズ。

黒田節の由来とは。。 

最初、正親天皇が所持していた天下の名槍日本号が 将軍・足利四義昭・織田信長・豊臣秀吉・福島正則へと譲られ、
最後には黒田家の家臣母里太兵衛に呑み取られた。
 
その逸話を、福岡藩の武士たちが 雅楽の越天樂の節「筑前今様」に乗せて替え歌にした。
それが 昭和初期のラジオで「黒田節」として放送され人気・大ヒットしたと言われる。

(以下参考転載)
民謡「黒田節」は 筑前今様と呼ばれた福岡藩の武士たちに歌われていたものが全国に広まったもので、
雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっているようです。
現在歌われる歌詞は、安土桃山時代に福島正則邸を訪問した黒田氏の武将母里太兵衛が、 正則に「飲み干せば何でも褒美を取らす」と
大盃に注がれた酒を勧められた際に、この酒を見事に何杯も飲み干し、
約束通り褒美に正則自慢の槍(日本号)を貰い受けたという逸話に基づいている。

戦前に、市丸、小唄勝太郎、藤本二三吉と並び称された人気芸者歌手である赤坂小梅によってレコード化され、
1942年(昭和17年)5月20日にコロムビアレコードから発売され有名になった。
戦前は「黒田武士」の題で吹き込み、 戦争中であったため、歌詞は戦意高揚の内容であった。
戦後の、1950年(昭和25年)5月20日に歌詞を一部変えて再発売された。 吹き込んだものはすべて「黒田節」の題である。
彼女の十八番であり、「黒田節の小梅か、小梅の黒田節か」と言われたものである。
 
典型的な七五調のための曲であり、テレビドラマ『水戸黄門』の主題歌『ああ人生に涙あり』、炭坑節、
「どんぐりころころ」、「月の砂漠」などの旋律とぴったり一致する歌詞である
 

酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を
 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士 皇御国(すめらみくに)の 武士(もののふ)は
 いかなる事をか 勤むべし ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで 峰の嵐か 松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か 駒をひかえて
 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん) 君の晴着のお姿を 寿祝う鶴と亀 松竹梅のよろこびを 
幾千代(いくちよ)までも祈るらん
(以上参考転載)
 

上記の歌では黒田武士と想夫恋との関連性が違和感があり、現代人には難解文です。
今や歌謡曲風に作詞補作されて色々歌われていますが、当聖剣もオリジナル歌詞を作りました。
振付も日舞風、剣舞風、拳舞風にアレンジして「武踊・黒田節入門DVD」制作を企画しています。
新・黒田節
呑めと注ぎ足す、大杯に
干さねば名折れ 意地がある
殿には叛く事なれど
見事飲み干せ 黒田武士
「酒は飲め飲め、飲むならば
日の本一の この槍を
?み取る程に 飲むならば
これぞ真の 黒田武士」(原歌)

武士に二言は無きものと
手に取る名槍 日本号
酔い足固く 踏みしめて
舞おうか一節 黒田武士

槍は一筋 肩に掛け
馬上豊かに 母里太兵衛
齣引き帰る 武士(もののふ)は
誉れ名高き 黒田武士

(1番から3番までか、2番から4番までを1曲として使用)


*****
黒田武士研究 *****

黒田如水の元には長政以下黒田二十五騎の強兵がいた。

母里太兵衛(1556~1615)播磨姫路城主、黒田職隆の家臣、曽我一信の次男。幼名万助。14歳の時 黒田家の家臣となる。6尺豊かの大男で、色白、髭濃く、大槍を好んで使った。大友宗隣の娘を嫁とする。 日本号は朝鮮征伐の時、一時休戦となり、その時伏見築城があり黒田家は北東の大亀谷に、福島家は城の西側にあり 母里太兵衛は使者として福島家を訪問、酒宴中に大杯をすすめられた。 見事飲み干して約束の日本号を手にするが、福島候は後で後悔して返還を求める。この為藩同士不仲になるが長政の 兜、大水牛と正則の一の谷との交換により仲直りをする。 日本号は2尺6寸、の穂先に7尺5寸の柄、無銘(大和国金房推定)。刀身には、倶利迦羅竜「くりからりゅう」不動明王の剣に巻きついて、 剣先を飲み込もうとする竜の浮き彫りが施されている天下3槍の一つである。
日本号は正親町天皇から信長へ、信長から秀吉へ、秀吉から福島正則の手に渡った名槍である。 関が原戦の時、石田三成の人質となっていた如水夫人を中津城へ奪回したり功績も大きい。 鞍手くらて郡高取の城主となる。鷹取城(1万8千石)
(追記)      父の名は曽我一信。妻鹿(現姫路市飾磨区妻鹿)の地侍で、小寺の付家老として官兵衛の父職隆に仕えた。
太兵衛は永禄12年(1569)に官兵衛に出仕。母方の姓をとって母里姓を名乗る。
天正元年(1573)、印南野合戦に初陣。
常に黒田軍の先鋒を努め九州の陣で豊前宇留津城攻めに一番乗りを果たす功績あり。

 「黒田長政」幼少時人質として秀吉の下にいた。信長の誤解から命をとられる所、軍師竹中半兵衛の 計らいで一命を取り留める。関が原の戦で多大の貢献があり筑前五十二万石の太守となる。
「黒田兵庫助」一万石(高森城主)宮本武蔵の父無二斎に剣術指南として秋月藩に仕官させた。
「黒田修理助」宗像郡津屋崎領主
「黒田図書助」同じく如水の弟。秋月藩
「栗山備後」一万五千石(左右良城主)後に黒田騒動お起こす栗山大膳の父、如水を牢獄から救出するのに苦心した。
「久野四兵衛」博多の町作りに寄与
「井上周防」黒崎一万六千石城主
「黒田三左衛門」八虎の一人。牢役人の次男。三奈木黒田の祖・
「後藤又兵衛」一万六千石(大隈城主)長政と肌が合ず脱藩。敵対する。夏の陣で伊達軍に討ち取られる
「野l村太郎兵衛」太兵衛の弟で豊前入国後二九六〇石領主。城井鎮房暗殺に際し、父曽我大隅譲りの短刀をもって一の太刀を浴びせる
「堀平右衛門」秋月黒田藩の元家老
「吉田六郎太夫」一千五百石(福岡城城代)母里、栗山lに次ぐ首取りランク
「桐山孫兵衛」豊前入国後は千八百石を拝領。関ヶ原では息子と共に如水に従う。太兵衛とは報告の件で大喧嘩をし、以後三十年近く口をきかなかったらしい。
「小河伝右衛門」豊前入国後は五千国を拝領。赤旗城を破り、大村城主の山田常陸介を討つ功績あり。 
「菅和泉」豊前入国後は二百石。剣術にも長じ、疋田文五郎と新免無二之助から奥技を授かる。 
「三宅若萩」豊前入国後は千五百石を拝領。筑前入国後も三千六百石
「野口依助」謙信流の使い手。豊前入国後は六百三十石を拝領し、宇都宮鎮房暗殺の際は従者七人を斬る。
「益田与助」筑前入国後に三千石に加増され、鉄砲組頭。朝鮮の役では足軽大将を務め、のちに五百石に加増
「村森新右衛門」豊前入国後、新右衛門は六百石を拝領筑前入国後は、石高も二千五百石に加増された
「林太郎右衛門」槍の達人といわれ、文禄の役では虎を突き殺す。筑前入国後は三千石を領し、大組頭の筆頭となる。分家は陽流砲術師範を世襲して明治に至る。
「衣笠久右衛門」朝鮮の役では後藤又兵衛と共に先手を務め、又兵衛に引けを取らぬ活躍する。筑前入国後は三千石を拝領、中老並みの待遇である。
「毛屋主水」関ヶ原の役では、石田・小西・島津の他は誰も動かないとみて、敵は寡勢であると報告した。家康は喜び、饅頭を褒美に取らせたという。 筑前入国後は七百石を拝領
「村田兵助」筑前入国後は二千石を賜り甘木宿の代官になる。兵助の甲冑は、黒田家では他に菅六之助しか許されてない朱具足を着た。
「堀平右衛門」五千石。
「黒田如水」秀吉の右腕として活躍。一時、荒木村重の説得に失敗して牢獄住いとなり、 その為、足が不自由となる。後年、九州を平定して、天下を狙うが息子の為、機会を逃す。
黒田家は一万石に満たない播州姫路の豪族から豊前中津十八万石大名になったのも豊臣秀吉の 天下統一に貢献したからである。その後関が原戦での功労を評価され筑前五十二万石大名となる。 天下取りの野望もあったが息子長政の功績の為断念する。

「黒田の二十五騎」
          武者太鼓          
ビデオカラオケ曲

作詞・作曲 聖剣 
編曲:山田恵範

天に稲妻 地に砲火
駆ける疾風(はやて)よ 騎馬武者よ
右に左に 手槍が舞えば
敵も恐れる 黒田の八虎
大地揺るがす 二十五騎
鳴らせ響かせ 武者太鼓

(和太鼓)

勝鬨あげよ エイエイオー
槍は兵(強者)又兵衛か
名代誉の 飲み取り太兵衛
往く手遮る 者皆覚悟
揃い踏みする 二十五騎
鳴らせ響かせ 武者太鼓

(和太鼓)

矢玉潜れば 血雨降り
一騎当千 強者よ
前に後ろに 屍越えて
天下横目の 黒田の如水
捌く手綱に 二十五騎 
鳴らせ響かせ 武者太鼓


「福岡城城主」

黒田長政(慶長5年)~忠之(元和1年)~継高(享保5年)~斉隆(天明4年) 
~長薄(嘉永7年)~長知(明治2年)
福岡藩が消滅するのは、戊辰戦争による出費で、 財政難を乗り切る為、
福岡藩は太政官札の贋造を行うが、これが 政府の知るところとなり明治4年7月2日に藩知事黒田長知は罷免される。
よって福岡藩は1全国に先駆けて2日間早く、廃藩させられたことになった。。 
「黒田騒動」


1623年(元和九年)長政の嫡子忠之は、
新参の倉八十太夫を家老として重用して
一万石を与えていた。
一方、 専制政治の忠之に戒め役であった家老、栗山大膳を 毛嫌いしていた。
この確執が黒田騒動の原因である。 船の建造など幕府の法に
触れる事を厭わない忠之に業を煮やして、
お家大事と「主に謀反の疑いあり」と
幕府に訴えた。
主人長政に遠慮しないで毛嫌いされた後藤又兵衛と似て、
黒田家にはこの種の君臣問題が多い。 

「明治最後の仇討ち物語」

明治元年・1868。5月24日早暁。
「干城隊」と称する青年士族グループが
臼井亘理宅に押しかけ、妻もろとも斬殺。
明治元年5月24日早暁。
妹のつゆ3歳も負傷する事件が起きた。
息子の六郎は一瀬直久が下手人である事を知り、 
苦心惨憺十三年間付け狙った末、
明治13年12月17日東京上等裁判所
(現東京高裁)判事に出世した一瀬を旧秋月藩邸内で
(京橋の鵜沼不見人宅)で、 父遺愛の短刀を用いて刺殺。
本懐を遂げた。
明治の剣豪、山岡鉄舟の門下生でもあった。
明治22年に 特赦で牢獄から出た後、
大陸に渡るが内地に帰り妻いねを娶り、鳥栖で駅前休憩所「八角亭」を営んでいた。 大正六年、60歳で死去。福岡支藩、秋月城藩での出来事である。


「一幕劇」
「呑み取り太兵衛」

伏見城。大広間。季節秋。広庭を望んで酒宴中。
中央に正則。周囲には家臣一同(重臣達) 家臣福島丹波、尾関石見、
長尾隼人の三家老や、鬼玄蕃と呼ばれた大崎玄蕃達。
「殿、お流れを一献」一人が正則の杯に酒を注ぐ。
「うむ。そちにも朝鮮の役では気苦労かけたな」
「なんの。殿の為なら、あのくらいの苦労など苦労には入り申さぬ」
「今日は膝を崩して飲むが良いぞ」
「はあ。ありがたき幸せ」
正則、立ち上がって、
「おう。皆の者にも言っておこう。
先般の戦では海を相手の難儀もあったが
どうやら 休戦になり一息就く事になった。
今日はその慰労を兼ねての酒盛りじゃ、膝を崩して 大いに飲むが良いぞ。」
「ハハツ」一同頭を下げる。場内盛り上がる。 そこへ小姓が入ってくる。
「殿、只今、黒田家臣、母里太兵衛なる御使者が参っておりますが、
如何いたしましょう」
「おう、黒田家からか。よし、通せ」

太兵衛参上。
「黒田家名代、母里太兵衛友信に御座います。
本日は我が主君、長政より書状を預かり持参致しました」
「うむ。ご苦労。長政公は健在か」
「はあ。壮健に御座います」
「それは上々。 返事は急ぐのか」
「いえ、先般のご苦労に対してのご挨拶のように御座います」
「ならば、丁度、酒宴中の所だ。太兵衛 、お主も同席して飲んで行け」
「はあ、有難きお言葉なれど、拙者、到って不調法故、酒は戴けません」
「何、酒が飲めぬとな。。これは、驚いた。
その大丈夫の体で飲めぬ筈があるまい。
遠慮は不要じゃ。」
「はあ、なれど。。。」
「おい、誰か、これなる御仁に酒杯を持て」
「はつ、只今。」
小姓の一人が 立ち上がって酒の準備をする。
太兵衛、困惑と期待の複雑な面持ちで断り文句を考えている。
[さあ、一献行こう。」
「申し訳ありませんが、矢張り、ご辞退申し上げまする」
「わし直々の酒が飲めぬと申すか」
「いや、もったいないお言葉なれど、一度、口に出した言葉、
引っ込めぬのが  この太兵衛の信条であります故、
ご無礼の段、平にご容赦くださりませ」
「いや、ならぬ。お主も強情の様だが、この 福島正則も、強情にかけては
一歩も引かぬ性分じゃ。一角の武士なら酒の五合も飲めぬでは、
話にならぬではないか。黒田の武士は酒におじけつくほど腰抜けではあるまい。
さあ、当地 名代の銘酒じゃ。味わって見よ」
「・・・・」
迷う太兵衛。近くの家臣の一人が
「これ、母里殿、折角の殿のお心差しじゃ、 ご遠慮のうお受けなされよ」
「実は拙者、生来の酒癖が悪く、我が殿より失礼があってはならぬと 厳重に禁酒を言い渡されております故、お受け出来かねまする。」
「それなら心配いたすな。長政公とは 実懇の仲じゃ、わしから返書に一言書き添えてやる。心置きなく受けるが良いぞ」
「はあ、其処まで仰るのであれば、お言葉に 甘えて一杯だけ頂きまする。。」
「おう。それでこそ黒田の武士じゃ。さあ、さあ」
小姓が五合杯に酒を注ぎ、太兵衛に手 渡す。

思い切り飲み干す太兵衛。
「いやあ、なかなか、甘露の味にて御座りまするなあ」
「そうじゃろう。矢張り、いける口の様じゃのう。 よし、もう一杯注いでやれ」
「いや、これ以上は。。。」
「遠慮は無用じゃ。どうだ。このわしと一つ飲みくらべと行こうでは無いか 
黒田の武士の飲みっぷりが、どれ程のものか見たいものじゃ」
「いや、先程も申し上げました様に、これ以上は醜態をさらすやも知れませぬ故。。」
「構わぬ。構わぬ。今日は無礼講じゃ、そうだ。お主がこのわしに飲み勝ったら、
お主の望みの褒美を取らそう」
「ご褒美を?。。。頂けるので御座いまするか」
「うむ。何なりと進呈しよう。ただし、このわしに飲み勝ったらの話じゃ、
これ、誰か例の大杯を持ってこい」
「ハツ」近習の一人が奥へ行く。
「言っておくが未だ、この正則に 飲み勝った者は皆無じゃ、よいかの」
「はあ、されば、私も人後に落ちた試しも御座いませぬ。」
「 よう言うた。相手に取って不足も無いということじゃのう」
近習が持って来たのは八合入りの大杯である。
波波と継ぐ。二人はそれぞれの杯を持つ。
「よいか太兵衛、この大杯を一滴残らず早く飲み干した方が勝ちじゃ。
おい、合図を掛けよ」
近習の合図で二人は飲み始める。周りの家臣たちが二人を応援。
「殿、それ、もう一息」「母里殿、負けるな」など。


太兵衛が僅かに早い。「私奴の勝ちの様で御座いまするな」
太兵衛は杯を置く。「いや、待て。今のは小手調べじゃ。 今一度勝負せよ」
「一度決まった勝負に、待ては卑怯で御座いまするぞ」
「何、卑怯と申すか」
「左様。戦場ならば首はねられた 後の戯言に御座る」
「ウーム・その言葉許し難いぞ、太兵衛」
「よもや殿、お約束はお忘れではありますまいな。」
「忘れてはおらぬが、家臣の分際で、そちの言い分は聞き捨てならぬ。 卑怯とは何じゃ」
二人とも大分酒が回っている。太兵衛も態度が大きくなる。
「前言を翻すのは卑怯で御座りましょう」
「許さぬぞ、その暴言!」
「許さぬとならば、何となされまする」
正則、背後に飾ってある 日本号を取り、鞘を払って太兵衛に突きつける
「今の言葉、取り消せ。」
「取り消せませぬな。黒田武士には二言は御座りませぬ」
「この槍、そちの胸元を刺し貫くともか」
「いかにも。なれど、殿が刺すこの太兵衛は長政の名代として参った者で御座る。
我が殿を刺すことに相為りますぞ」
「うーむ。。。長政公とな。チツ、友は刺せぬわ。」
正則槍を引く。 「わしの負けじゃ」
「所で殿・殿の手にあるのは噂に名高い日本号とみましたが。。」 
「いかにも太閤秀吉様から賜った名槍だ」
「ならば、その日本号、 お約束の褒美に賜りたい もので御座る」
「何と、この槍をかあ、、 これはイカン。他の槍なら呉れてやるが。。」
「福島正則公とあろうお方が 二枚舌を使われるとは心外。
武士たる者、二言は無い筈でご座る」
「うーむ。痛い所を突きくさるの。。。 解った。
わしも一城の主じゃ。 よし。差し使わす。持って行け」
正則、太兵衛に手渡す。
「ハーツ。有難き幸せ。さすがは天下の福島様、 度量が大きいお方でご座る」
「お世辞をいうな。。。太兵衛、この槍、 大事にいたせよ」
「はつ。命に代えましても」
「うむ、ならば良し。 さすがのわしも酒に酔ったわい 」
自分の座にどっかと座り込む。
「太兵衛、何か舞いなど心得ておるか」
「我が藩に伝わる筑前今様ならば少々。。」 
「よし。わしの為に舞って見せい」
「では、酔い覚まし に一興。この日本号で。。」 
太兵衛やおら立ち上がると、やや酔い脚ながらも朗々と詩い、舞い始める。

酒は飲め飲め 飲むならば
日の本一の この槍を
呑み取る程に 呑むならば
これぞ 真の黒田武士

終。


戯作:聖剣


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